共依存。
この言葉には
なんだかいつもとても反応が生まれてきた。
共依存。
なおとまゆのこの4年間は
たぶん、きっと、そうだから。
なおはまゆの自由を奪ってきたし
まゆはなおの自由を奪ってきた
ある意味
ただ
一方から見ると
それぞれが
抱える傷のようなものを
(それは大体親との間で育んできてしまった独特な世界の見方 からくるもの)
を
写しあって
ときには反応したし
ときには
かつて欲しかったものを
擬似的に手に入れさせてもらい
ある意味
傷を舐め合ったり
親子ごっこをしたり
そうすることで
なんとか
心の拠り所を持って
生きてきた時間だったように思う
共依存 とか
傷の舐め合い とか
“私はあんたの母親じゃない!”とか
なかなか
かっこいい感じではないけれど
わたしと茉優のこれまでの
4年間は
土台として
そういう感じがあったのだと思う
あまり心地よくない現実を共同クリエーションしたこともあれば
お互いとの関係を通して
傷を癒やしたりもしてきた
そして
今
その関係性が1つの終わりを迎えようとしている
それはきっと
お互いをより軽く自由にし
2人の間のつながりを
もっと本質的なものにしていくのだとは思う
けれど
これまでの4年間の歩みや
ともに生きた時間
今は
それらがたまらなく愛しくて
手放しがたく感じている
ピュアな想いからではない部分が
とてもたくさんあったようだけど
それでも
この4年
“茉優にしがみつき続けてきた”
“茉優との関係を守ることに全てを費やしてきた”
わたしに
わたしの道のりに
よくやったよ
を贈りたい
かっこよくはない
自立した関係でもない
“親と子”風をやり過ぎて
惹かれあいづらくなったりもしてる
それでも
それでも
わたしは
わたしの
安心の
ふかふかお布団を守りたかった
ようやく出会えて
ようやくわたしの方を見てくれたまゆとの関係を
死んでも守りたかった
そういうことだよね
誰にどう言われても
わたしのその強い想いは
わたしが
最大限に
労ってあげる
よくやったよ
よくやってきたよ
いつも
わたしは
あなたの味方だからねって。